財布をなくした。
どうやら自転車に乗っているさいちゅうに、穴のあいたジーンズの後ろポケットからぽろりしてしまったらしい。お尻ふきんの妙な清涼感に気味が悪くなり、手でまさぐってみると、案の定財布はポケットから脱走していた。
あわてふためき、顔面蒼白になりながら来た道を泣く泣く戻る。無い。困ったときの警察頼みで交番にかけ込む。
どんぐり眼のすっとんきょうな顔をした若い巡査が懇切丁寧に対応してくれたが、限界状況にあってはじぶん以外の人間すべてが呑気にみえて腹が立つ。
紛失届けなるものを書く。「財布」という字がうまくかけなくて、手が震える。
「すいませ〜ん、お金拾ったんですけど」という子持ちの主婦にしか出せないような、疲れた生活感にみちた声が耳に入る。その声の持ち主のほうへといそいでふりむいて確認したい気持ちをおさえて、黙々と書類の空欄を埋める。しかし、ふつうであれば「財布を拾ったんですけど」と発見者は告げるはず。そんなことが頭をよぎった瞬間、先の声の持ち主がむき出しにされた札束を巡査に渡しているのが目に入った。予想どおりといえばそれもそうだが、やはりどこかで期待していたのであろう、いたずらにこちらの期待を煽った天罰がこの女にくだることを密に願いつつ、さらに書類作成に没頭するふりをする。
書類を書き終えると、クレジットカードの停止手続きをするようすすめられる。が、こんなときに限って携帯を家に置き忘れている。今日の運勢の悪さをまた呪う。
と、そこへまたひとが駆け込んできた。「お財布ひろったんですけど〜」という、夫との隠居生活をテニスに興じながら悠々自適に暮らしてそうな、淑女の声が聞こえた。取得物が「お金」ではなく「お財布」だったからか、先の一件が自制心の堤防を決壊させたのかは知らないが、今度はわが身もかえりみず上半身をひねりにひねって、その声の持ち主のほうへ目をやる。その淑女が手にしているものを知覚するよりもはやく、「それ私の!」と、今から思えば恥ずかしいほどの大声で叫ぶ。
椅子を立ち上がり、取得者のほうへと歩み寄る。感動の再開。じぶんの貧困なボキャブラリーのを総動員して感謝のことばを述べつくし、あとでお礼を改めてしようとするために連絡先を聞き出そうとするが、その淑女は断固として「いいんです」の一点張り。最後は「よかったですね」という言葉を残して、買い物籠を前輪にとりつけた自転車にのって去っていった。
その場で財布にはいっていた1万円ぐらいは謝礼金として渡しておくべきだったか。その点はいまなお気がかりではある。
倫理とよびうるものの原風景を垣間見た気がする。じぶんにはおそらくできない行動であろう。