その一

NFC Divisional Playoffs
Washington@Seattle on G+
1stクウォーターでRB.Alexanderを脳震盪(?)をおこしてサイドラインにさがるも、堅守とてがたいオフェンスで勝利。
AFC Divisional Playoffs
New England@Denver on Gaora
ファンブルインターセプトの嵐(5Turnovers)、王者らしからぬ拙攻で完敗。やはりプレーオフには魔物がすまうということか。個人的には3連覇を阻止することが最優先なのでうれしいのだが、やはりIndianapolisとの決戦も観たかった、などと勝手なこともおもったりしつつ、最後はそれぐらいの余裕をもって観ることができた。傑作だったのは、3rdクウォーター自陣ふかくまで攻められてからのCB.Champ Baileyの100ヤード・インターセプト。そんなにがんばって走ったにもかかわらずリターンTDをうばえなかったというところがミソで、Baileyはのこり5ヤードを残したところでTDを確信してセレブレーションのほうにすでに意識が向いていたのか、急に失速し、背後から猛追してきたPatriotsの選手にタックルをくらってしまい、おまけにファンブルまでしてあわやタッチバックになるかというきわどい状況をみずからの怠慢でつくりだしてしまった(なおリプレーを観ると、余ったブロッカーも同様に失速しているので連帯責任なのだが)。
問題は解説者の河口さんの対応である。河口さんはいかにも日本人的にBaileyの怠慢(失速したこと、ボールをサイドライン側でもたなかったこと)をとうとうとなじっていたが、このゆるみとインターセプトというスーパープレーは表裏一体の関係にあるようにおもえてならない。「一瞬の動物性」による飛躍がスポーツ観戦において最大の醍醐味のひとつであるとすれば、その飛躍の代償としての怠慢は仕方がないのではないだろうか。「仕方がない」という言い方が乱暴であるとすれば、スーパープレーをしてやろうという下心とそれが成功したときの理性の喪失という動物化は、あのような怠慢の可能性をつねにはらんでいる、とでも言えようか。もしあそこでTDがとれていないことでBroncosが負けてしまったり、あるいはPatriotsのチャレンジが成功してタッチバックになっていたりしたら、あの怠慢は許されざるべきものとして糾弾されていたかもしれない、ということをおもえば、あの怠慢をしょうがない、と言えるのは結果論にすぎない、ということになるだろうが、そう言うこと自体も想定される結果に依拠している以上結果論の枠組みをでていない。この表裏一体ということは、たとえばMLBでいえば、日本人解説者が顔を真っ赤にしておこるようなミスをしては非常識とされるワンハンドキャッチでゲッツーをとってしまうこと、あるいはNBAでいえば、PistonsのRasheed Wallaceがどうかんがえても不必要なテクニカルファールをくりかえしもらってはコートにもどり常人には発揮できないアドレナリンを発揮すること、ちょうどこれらのことが表裏の関係にあるのとおなじである。日本人の解説者は、ほぼすべてのスポーツにおいて、ミスをなじることにとかく終始しがちであるが、この傾向は、ミスは努力や精神力や集中力で防げるという、日本のスポーツ観に根強くはびこる努力主義・精神主義と共犯関係にある。そこからスポーツ観戦にかんして帰結することは、試合までにいかに努力してきたか、その努力がいかにして報われたか、または報われないことでいかに悔しいおもいをしたか、という試合中のプレーとは本質的に関係のない物語的要素にスポーツのおもしろさを還元し、ひたすらスポーツ観戦の醍醐味を心理主義化することである。これらの物語的要素はまったく不必要であるとはいえないが、あくまで焦点は試合のなかのひとつひとつのプレーにあり、昨今の民放のスポーツ中継においてますます跋扈するスポーツ放送における心理主義化はひとつの倒錯にほかならない。なんとかならないものだろうか。