其の三

ジョギングして疲れているはずなのにどうしても眠れない。おかしい、とおもいきや、座眠(座りながら眠るの意)をしたじぶんが悪いのだった。
眠れないときは、煙草を吸いながらネット・サーフィンをするに限る。まえからおもっていたことを活字にしてくれているページを発見した。
論文作成のてびき?
筑波大学でフランス思想と現象学を講じている廣瀬浩司氏のホーム・ページ。「問題意識という神話」の「脱構築」という、いかにもな表現には苦笑してしまうが、内容には首肯。周囲のひとびとから「きみの問題意識とはなにかね?」と聞かれるたびに、答えに窮し、またそんなことを聞くのは野暮だとおもっていたので、このページを発見したときには目からうろこがおちるおもいであった。
レポートや論文を書くときに、「問題意識」をはっきりと立てて、それにしたがって筋立てを決めてから書きはじめなさい、という格言は、論文を書き終えた者が論文作成の過程を事後的に再構築した「神話」にほかならない。むしろ、「問題意識」などというものは「勉強が進んで、あとから見えてくるか、あるいは必要があってこじつけとして作り上げるものにすぎません」と廣瀬氏は言う。このような「神話」の根源には、われわれは明確な目的意識をともなって行為をする、という合理的な人間像が潜んでいると廣瀬氏は見ているようだが、それだけではなく、メルロ=ポンティが批判するような、「表現」という営みはすでに完成した思惟という原テクストを翻訳することである、とする主知主義的なかんがえが根強くこびりついているのではないだろうか。そうではなく、「表現」をすることでそれまではじぶんに対してさえ無知であった思惟をとりあげなおし、完成させることに「表現」の本義があるのであり、レポートや論文の作成とて、例外ではないであろう。したがって、「問題意識」をもって文章を書くのではなきなさいというのではなく、書くことで曖昧な「問題意識」をすこしでも先鋭化させるという態度が、本来は求められるべきなのではなかろうか。
これから、あいもかわらず「きみの問題意識とはなにかね?」と聞いてくるひとに対しては、「それを少しでもはっきりさせるために勉強しているのです。」と答えればいいのである。

今日の一曲:A Tribe Called Quest, Scenario in The Low End Theory
今日ジョギング時に聴いていた、DJ Nozawaの古典的Mix Tape "Floor Cruising"にはいっており、ひさびさに聴いた。まったく色あせることのない名曲。今日最後まで走りぬくことができたのも、ひとえにBusta先生のお陰である。なお、同テープA面終盤の「トライブつなぎ」は圧巻。
Low End Theory